秋葉原今昔記と計測器業界

東洋計測器株式会社
代表取締役 八巻 秀次

計販会サイト運営委員の八巻です。
コラムページ覧スタートにあたり、まずは委員の旁々からという事で僭越ながら私から掲載する事となりました。 尚このページは指名制にて、次回指名された方は約一ヶ月内にサイト運営委員迄提出されるよう宜しくご協力お願い致します。

計測器の歴史は日本の工業立国としての歴史そのものであり、弊社においても秋葉原の歴史抜きには語れません。

ところで皆さん 秋葉原(あきはばら) の由来ご存知でしょうか?

現在の秋葉原電気街近辺は江戸時代、下級武士の居住地域で「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるくらい火事が多発、悩みの種だったそうです。
1869年(明治2年)の相生町の大火を機会に、明治政府下の東京府は9000坪の火除地を当地に設置、翌1870年(明治3年)に遠州(現在の静岡県)から火除けの秋葉大権現を勧請し鎮火神社として祭り、当初は 鎮火原と呼ばれ 鎮火神社が秋葉神社(現在は台東区松が谷に移転)と改められると 「秋葉原(あきばはら:あきばっぱら)」 と呼ばれるようになり 現在「あきば」と略されるのはこのあたりが語源と言われております。
1980年(明治23年)に上野から鉄道が敷設され当地に駅が開設、駅名は「秋葉原(あきはばら)」としてその名前が一般化したとされております。
又、現在では世界の秋葉原として世界各国の観光客のツアーの定番となっておりますが、昭和20年3月9日から10日にかけた東京大空襲で東京はほぼ壊滅、秋葉原も焦土と化したものの大平洋戦争後、復員兵達が駿河台;小川町界隈の闇市で徐々にラジオ部品を扱うようになり、1949年(昭和24年9月)日本の復興には各種の社会インフラ充実が必要と考えたGHQ(占領軍総司令部)による露店撤廃令によってガード下にラジオ商が収容された事が秋葉原電気街の始まりと言われております。

私共東洋計測器は、先代社長の父がちょうどその時期に当地ラジオセンターで商いをスタートし、関係者有志と共にGHQと色々と掛合ったというような話も生前聞いており、当時を偲ぶラジオセンターと牛舎を曳く男、そして都電のレールやダットサンでしょうか黒塗りの乗用車、神田市場の活気を想像させる荷物の山等が撮影された写真を私の部屋に飾り、観るたびに初心を思い起すようにしております。

1951年 秋葉原中央通り

昭和8年当時から廣瀬商会、山際電気商会が既に外神田に店を構え総合問屋として地方にネットワークを張り巡らせ急成長、秋葉原の将来を予測させたとも言えます。
戦後、近隣にある電機工業専門学校(現在の東京電機大学)の学生がラジオを組立て販売するというアルバイトをしたところ爆発的に売れ、これに乗じた露天商が急激に増え、約50数軒の電器露天商が軒を並べたそうです。
又先般のNHK放送でご覧になった方もおられると思いますが、ソニーのトランジスタを武器に町工場から世界へ羽ばたいた黎明期の苦難や、三洋電機の洗濯機開発にかけた意気込み等、戦後の歴史は当時豊かさの象徴といわれた三種の神器、電化の歴史そのものであった事が伺われ、現在のマルチメディア;パソコン情報化時代へと営々と引継がれ秋葉原の歴史もその流れを受け入れて発展、現在に至っているといえます。
当社も又、家電の秋葉原と言われる中で計測器専業商社として各メーカーを取扱、又ラジオセンターを中心とした店舗展開で堅実経営をモットーとしてきました。
店舗をもった計測器商社は当社だけ、又秋葉原に店舗があるということでメーカーとしてもショールーム効果を得られることから当社のユニークさに着目ご懇意にしていただいたといえます。

ところで、あの新宿伊勢丹発祥の地がこの秋葉原だったんですね!
当社から1分程歩いたヤマギワリビナ館あたりがそうで、「伊勢丹発祥の地」石碑があります。又、肉の万世はその当時「万世商会」という電器商だったんですね! 
近隣には日本古来の文化の象徴、730年(天平2年)といわれる神田明神や1690年(元禄3年)5代 将軍徳川綱吉によって建てられた孔子廟、湯島聖堂(昌平学問所として日本各地から青雲の志を抱いて集まる当時最高学府であった処で明治4年にはここに文部省が設置されたいた)、そしてニコライ堂や、又神田川沿いにあるJR中央線ガード下の都会的ななかでも情趣あってノスタルジックなレンガ建造物、夜になってからライトアップして河上ビヤガーデンでもすれば夜の秋葉原町興しに打ってつけと思いますが皆さんいかがでしょうか?かって大正初期迄は釣りや水泳ができたそうで、今でも四季の花々が北岸を飾る神田川の川風を受けて河下に悠々と泳ぐ大きな色とりどりの鯉を観ながらきっと美味しいビールが飲めると思います。

現在の秋葉原は焼け野原からスタートして幾多の困難を乗越え新たな大きな転換期にさしかかっており、世界の「AKIHABARA」の顔としてマルチメディア街に変貌しております。
1994年(平成6年)には秋葉原電気街の売上が家電をパソコンが上回り、現在の秋葉原は「マルチメディア最先端の街」として情報発信、又ラオックス等の免税店等増床に伴い店頭には外国籍の販売員も増え、お土産を買求める外国人らとあわせて、さながら秋葉原は無国籍空間の様相を呈しております。
又、秋葉原の販売店エリアの拡大傾向とともに諸問題も発生しており、家電・パソコン・ゲームソフト・ゲーム機器・アニメ関連・電子部品と様々の顔をもった街、秋葉原も、駐車場がない、レストランがない、ファッションがないといった偏った現状を打破すべく、ダイナミックに建設の槌音が響いてきております。

ご存知、東京中央卸売市場神田市場跡地の1.6へクタールに及ぶ秋葉原大規模再開発です。

大正から昭和にかけて須田町が市電の交通の要であり、国電中央線の始発駅万世橋(現在の交通博物館)は、一日の乗降客数が東京で4番目、又 昭和2年には浅草からの最初の地下鉄銀座線開業の際現在の神田川万世橋下貫通して電車が通るという事で大いに話題になり、人々が賑やかに乗降したそうです。
現在の秋葉原近辺も交通の要として、JR総武中央線、山手線の秋葉原駅や中央線お茶の水駅、地下鉄 銀座線神田駅や末広町駅、日比谷線の秋葉原駅等と昔劣らず賑わっておりますが、新たに2005年(平成17年)にはつくばエクスプレス(常磐新線)の秋葉原始発駅開業予定、世界の秋葉原ITセンターとしての整備構想(2005年完成予定)、サテライト連合大学院の開校義務づけ等ビッグプロジェクトが目白押し、全面完成は2006年とも言われており、これからの秋葉原は話題に暇ありません。
日本通運本社が来年6月には汐留に136メートルの本社ビル完成後移転予定、又ヨドバシカメラがついに本丸秋葉原ワシントンホテル前近辺にに進出決定、用地確保しており、秋葉原の家電・カメラ・パソコンの競争も熾烈を極めそうです。ダイナミックに躍動する秋葉原において、私共も常にアンテナを張り巡らせ柔らかい頭脳をもって対処せねばならないと痛感しております。
老舗の中浦電気(電気のナカウラ)のラオックス吸収、ヒロセ無線電機・第一家電等の破綻、つい先日も40数年来のラジオセンターの老舗が廃業するとの知らせに、一抹の寂しさと秋葉原の世代も時代の転換期に我々若い世代が頑張る時代がきたのだなと感じました。
秋葉原の来訪者の世代もパソコンを中心とした街の変貌に併せて「おたく族」の若者が増えてきております。「秋葉原=IT」という短絡的なお役所思考でなく、電気街一帯の再開発を新宿・渋谷・池袋のような大型商業施設の開発を城東における副都心に位置付け、個性的な若者文化の情報発信基地として民間主導で創造東京都による奨励補助サポートという役割分担で押し進めるべきと考えます。産業の空洞化そして構造改革が叫ばれて久しくなりますが、日本における計測器業界の果たす役割も変貌してきているように思います。
農業革命・産業革命に続く第三の革命時代に突入、しかも、日本という殻だけにこだわっていては競争に打ち勝てない国際化の大きなうねりを感ぜずにはいられません。
例えば今の中国をみていると一昔前の日本の、もはや戦後ではないといった急成長の時代に入っているのをみるにつけ、今、我々計測業器業界は将来を見据えながら今ある事に着実に行動し、国際化の進展著しい計測器業界にとってどうすれば新しい付加価値の創出して生き残れる事が出来るのかを真剣に考え実行に移す時期にきているようにも思います。
又、これらは計販会各社にとってメーカー各位のご協力なしでは為し得ないことなのです。と同時に、計販会各社の一致団結と英知も求められているようにも思いますが如何でしょうか?

最後に 計販会各社の更なる発展とご健康を 祈念致します。

(2002/9掲載)